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御復活の大祝日   Dominica Resurrectionis Domini




 春の始めの満月に続く最初の日曜日にはイエズス・キリストが死者の中より蘇り給うた事を記念する。これはキリスト教に於ける最も古くまた最も重要な祝日で、聖会の一年を連山に喩えればその最高峰とも見るべきである。昔一般信者は三日にわたり、新受洗者は洗礼の白衣を着けたまま一週間の間、主の御復活を祝った。今日においてもこれは第一級の特別週間とされ、その間毎日特有なミサ聖祭が執行される事になっている。かような事はいかなる他の大祝祭にも見られぬ所である。そして御復活節の間は毎日ミサ聖祭中にも、聖務日課中にも、聖会は「この日こそ主の造り給える日なれ。我等楽しまん。この日において喜び躍らん」と祈るのである。

 実際この日は全能の天主に依って設けられたものであった。即ち主が十字架に磔けられ給うや、ファリサイ人等は「天主の子ならば十字架から降りて見よ。そうすればお前を信じよう」と口々に嘲弄の言葉を浴びせかけた。これに対しイエズスはその時は彼等の罵詈を甘受し、敢えて十字架を降りようとはなされなかった。しかしその日から三日目にそれより遙かに偉大な奇跡、死よりの復活を行って御自分の神性を立派に証明し給うたのである。人間はどんな名医でも寿命だけは如何とも為し難い。もちろん死後自分の力で蘇る事などは到底出来ないのである。果たしてしからばイエズスが「再び生命を取る(生き返る)」人間以上の力を有し給うた以上、その天主である事は疑いない事実といわねばならぬ。

 主は御自分の御受難、御死去のみならず、御復活に就いても、かねてより明らかに告げ置き給うたが、今やその御預言通り、そのこぼたれた御体の神殿を三日の後に建て直し給い、実際に蘇って、まず墓畔でマリア・マグダレナ他数名の婦人達に、次に使徒のかしら聖ペトロに顕れ、更にエンマウスに行く弟子達にもパンをさく時主なる事認めし給うた。それから又しばしば使徒達御弟子達にも顕れて彼等と会食し、トマの疑いを晴らす為その指を釘づけられた傷痕に、その手を御脇腹の傷口に入れしめ給うた。かように使徒達は自分の目で聖主を仰ぎ見、自分の手でその御体に触って確かめたのであるから、その御復活に就いてはもはや絶対に疑う余地がない。否、その驚くべき事実は主の敵や御墓の番兵さえも認めぬ訳には行かなかったのである。

 それ以来使徒達はまず聖霊降臨の日に、次いで生まれつき歩けない者を癒した時も主の御復活を公言して「天主はキリストを死者の中より復活せしめ給うた。我等はその証人である」と主張し、鞭打ち、監禁等の刑罰を以て威嚇されても「我等は見聞きした事を語らぬ訳に行かぬ」と言ってゆずらなかった。そしてこの事実を証する為、彼等は数多の艱難辛苦を耐え忍び、遂には殉教の死をも辞せなかったのである。その後もキリストの御復活を信ずるが故に欣然生命を献げた殉教者は無数にあった。かくてこの信仰は幾多長期にわたる迫害を蒙りつつも世間に打ち克ったのである。

 主が設け給うたこの日は誰よりもまずキリスト御自身にとって喜びの日である。本日のミサにおける入祭文中の「我蘇りて」云々の言葉は即ちその最初の御凱歌に他ならない。また続誦中に「死と生と奇しき戦いを戦い、生命の君死して蘇り王たり給う」とある如く、主は御復活に依って死を征服し給うた。そしてこの御勝利の完全なる事は、聖パウロが「我等はキリストが死者の中より復活して最早死し給う事なく、死が更にこれを司ることなかるべきを知る」と教えている通りである。

 キリストの御復活はその御母にとっても喜びの日であった。聖書には記してないがイエズスが御復活後にまず第一に長らく苦難を共にされた聖母に現れて「我蘇えれり」と告げ給うた事は疑いない。最愛の御子が復活し給い、その痛々しかりし御傷痕も今は栄えある御勝利の印と変じているのをご覧になった時の聖母の御喜びはどれほどであったろう。その瞬間今まで御胸を閉ざしていた悲しみの氷はたちまち跡形もなく解け去って、ただ喜びの年が洪水のように漲り渡ったのであった。聖会が御復活節に我等をして「天の元后喜び給え、アレルヤ!」と祈らせるのは、即ちこの聖マリアの御喜びを偲ばせる為なのである。

 キリストの御復活は更にマリア・マグダレナその他の敬虔な婦人達にも喜びをもたらした。彼等は主の御墓に詣でて御亡骸に香料を塗ろうとした所、はからずも死せる主ではなく活ける主を見喜びのあまり早速馳せ帰って使徒方御弟子達に書くと報じたが、その後も蘇り給うた主はしばしば御姿を現して我等一同の信仰を固め給うたから、彼等はいずれも希望と喜びに燃え、主の為には艱難も迫害も死をも厭わぬ大勇猛心を養われたのである。

 イエズス・キリストの御復活を喜んだのはこの世のひとばかりではない。古聖所に在る義人達の霊もそうであった。というのは主は「古聖所に在りし霊に至りて救いを宣べ伝え」給うたからである。

 最後に主の御復活は我等にとっても喜ばしい祝日である。彼は我等の為に十字架上の死をすら甘受し給うたのであるから我等がその御勝利を喜ぶのはもとより当然であるが、またそれは我等自身の為にも大いに慶賀すべきことと言わねばならぬ。何故ならキリストの御復活は我等の信仰の基礎であるからである。「我は復活なり、生命なり」と仰せられた主は我等にも復活をお約束になった。聖パウロはそれに就いて記して曰く「死者の復活する事なしという人々汝等の中にあるは何ぞや。死者の復活する事なくば、キリストも復活し給わざるべし。もしキリストの復活し給わざりしならば、我等の宣教は空しく、汝等の信仰もまた空しかるべし。されど現にキリストは永眠せる人々の初穂として、死者の中より復活し給いしなり。けだし死は人に由りて来れり。死者の復活もまた人に由りて来れり。一切の人アダムにおいて死する如く、一切の人またキリストにおいて復活すべし」と。かようにキリストの御復活が肉体の蘇りの保証である以上、我等の死に対する悲しみも将来の復活に対する楽しい希望に変わらざるを得ない。墓場は天主の畠であって「身体は腐敗において蒔かれ不朽を以て復活し、動物的身体に蒔かれ、霊的身体に復活」するのである。しかし復活に就いて一つの重要な事がある。それは死者の復活は一様ではないという事である。主は善人は生命に至らんが為に復活し、悪人は審判を受けんが為に復活すると教え給うた。されば御復活節中或いは洗礼を受け或いは告白してそれぞれ主と共に霊的に蘇った我等キリスト信者は、他日義人として喜ぶべき復活を与えられるよう、熱心に地上の快楽や身の悪欲を抑え、天国への道を歩まねばならぬ。これこそ御復活節の間聖会が繰り返し我等にすすめる所なのである。